「なるほど......こういうことか 」
「......ね 言ったでしょ 」



     Crystal eyes       9



目の前に広がるその景色は 一般の男性なら一瞬は引いてしまうものだろう。
もちろん ノブさんも みんなと同じく普通の人なので.......

「もし無理なら 先帰ってていいよ。あとバスでも帰れるし 」
「...... 大丈夫。ほら あそこ......男もいるしさ 」

小声で話しながら ノブさんの指を指す方角を見てみると
確かに男性の姿もちらほら見える。
だけど この産婦人科の待合室っていうのは 一種独特なムードがある。

「でも.....」
「いいから ほら 受付してこいって 」


とりあえず受付を済ませてから トイレに行って戻ってみると
そこに座ってたはずのノブさんの姿が見えなくて
やっぱり一人ではいたたまれなくなって 煙草でも吸いに外に出たんだと思ったんだけど
周りを軽く見回すと 入り口脇の壁に吸い込まれそうに見入ってるノブさんがいた。


「.....ノブさん 何 見てんの?」
「ん?......」

そこには ここで産まれたであろう赤ちゃんの写真がずらりと並んでて......

これ.......

どこの病院でも やってることは同じなんだね。
ノブさんが笑顔で見つめるそのたくさん並んだ写真。

昔 これを見て泣きそうになってしまったことがある。
あの時は 避妊のために産婦人科に通った。
それが今はこうして 妊娠してることを祈ってるなんて......


「可愛いよね......ちっちゃくってさ 」
「そうだな。ほんっと ちっこいな 」


やっぱり ノブさんの赤ちゃんが欲しいって
本当にできてたらいいなって そう思った。




「秋山さん 秋山香織さん」

名前を呼ばれて立ったら なぜかノブさんも立ってしまって

「ちょっ......ノブさんはここで待ってて。お願い」
「あ.....そうだな。うん わかった。」

二人で緊張してどうするんだよって感じ。
診察室に入ると 優しそうな女医さんがにこにこして座ってた。


そして.......












「やっぱり どこがどこなんだかさっぱりわかんないね。」
「うーん。確かになぁ」
「ていうか良かったぁ。女医さんで.....お義母さんに聞いて行って良かったよ。」
「おい すぐおふくろに知らせないと たぶん待ってるぞ。」
「あ.....そうだ。電話しなきゃ。」


とか何とか言いながら ノブさんは まだじっとそれを見てる。
帰ってきてから仕事に行くって言ってたのに.....

ノブさんが見てるのは 真っ黒い輪の中に小さくて白い雲みたいなのが写ってる一枚の写真。
いくら見ても 確認はできないけど ここに写ってることは間違いない。



........ノブさんと私の赤ちゃん......



先生に 「おめでとうございます」って言われたときは 驚いてしまって。
私のお腹の中に赤ちゃんがいるなんて......
もちろん 覚えがあるんだから当然なんだけど
それでも何だか信じられなくて しばらく放心してしまった。
先生がご主人もご一緒にって言うから ノブさんも診察室に入れてもらって
一緒にエコー写真って言うのを見せてもらったのがこれ。
ノブさんはさっきから いろんな角度でそれを見てる。

そんなノブさんはとりあえずほっといて お義母さんに電話したら
こちらはこちらで もう大喜びで......
次の検診には絶対ついていきたいと言い出した。
別に嫌って訳じゃないけど お姑さんと一緒って どうなんだろ。
本当は病院くらい 一人で大丈夫なんだけど
親元から離れて暮らしてる私を心配してくれての言葉だろうと思ったから 次回は一緒にきてもらう事にした。
電話を切って ノブさんの方を見ると.....


はぁっ....もう.....



「ノブさん 仕事は?いいの?」
「なぁ....もしかして ここが頭じゃないか?」

.....やっぱり 今日はだめだな。

「わかんないよ 。先生もまだ小さいからって言ってたでしょ。」
「いや でも......そうすると この辺が 足だろうな 」
「ふふ 何 勝手に決めてんだか。困ったパパだわ 」
「パパ......って。そっかぁ そりゃそうだよなぁ 」

パパって言われただけで 照れまくってるノブさんを見て笑ってしまった。
だって.......本当に面白い顔なんだもん。
言った本人も 実は結構 照れくさかったりしたんだけどさ。
いつまでも笑いが止まらない私のお腹に
ゆっくりと手を当ててからノブさんは言った。

「そういう香織だって ママだぞ ママ 」
「だよねぇ......でも 何か実感が沸かないんだよね。」
「おい 頼むぞ。とにかく無理だけはするなよ。俺に出来ることはするから。」
「ありがと。.....で 早速 申し訳ないんだけど....」
「どした?」
「......ちょっと 横になりたい。何だか眠くってさ 」


緊張の糸が切れてしまったのか何なのか とにかく眠くて.....
実家のお母さんにも 他のみんなにも知らせないといけないのは分かってるんだけど
頭が働かないというか どうにもこうにも 瞼が閉じてしまう。
少し眠ってからでも遅くないと思って ここはベッドに入らせてもらうことにした。
横になってすぐに 深い眠りに落ちてしまって.....







「.......ん?.....え! 今何時?」


目を覚ますと 外はもうすっかり真っ暗で 慌ててベッドサイドの時計を見て驚いた。
もう 八時.......こんな時間まで寝るつもりなかったのに。
ノブさん きっとお腹空かしてる。
ベッドから抜け出してリビングに行ってみたけどノブさんの姿はなくて
バスルームから音がしてることに気がついた。
ノブさんがお風呂に入ってる間に 食事の支度をしようと思ってキッチンに行くと
テーブルの上には すでに夕食が出来上がってて お皿にはラップが掛けられてた。

まさか......ノブさん 作っちゃったの?

こっそりラップを開けて中身を見てみると なんとも美味しそうな肉じゃが。
違うお皿には 昨日 下ごしらえしといたアジが きちんと尾頭付きで乗っかってた。
ガス台の上のお鍋の蓋をとると お豆腐とわかめのお味噌汁まである。

すごい.....でもノブさん こんなことできたっけ?





「うまそうだろ。どうだ 惚れ直したか?」

お風呂上りの濡れた髪の毛を くしゃくしゃとタオルで拭きながら ノブさんがキッチンに入ってきた。

「あ ノブさん ごめんね。すっかり寝ちゃってた。」
「疲れてたんだろ。どうする?先に食うか それとも風呂に入ってくるか?」
「それより これ どうしたの?」
「どうしたのって?」
「誰が作ったのかなって思ってさ。まさか......」

ノブさんは 何も言わずに 冷蔵庫からビールを出してきて美味しそうに喉を鳴らした。
私の想像に狂いがなければ 今日の夕飯のコックさんは.........

「.....おかあさん....来たの?」
「やっぱり ばれたか。実はな あれからおふくろ飛んできてさ。」
「どうして 起こしてくんないかなぁ。」
「よく寝てたから.......いいじゃないか。別に 」

そう言って おかずに掛かったラップを半分めくって ちょこちょことつまんでる。

......おかあさん来たなら 起こしてくれればいいのに。

たかだか妊娠したぐらいで 夫の夕飯も作らずに寝てる嫁なんて洒落にもならない。
きっと そういうのはノブさんには分からないとは思うけど
おかあさんにしてみれば だらしのない嫁だと思ったかもしれない。
別に できたお嫁さんだと思われたい訳じゃないけど
だけどやっぱり こんなところは見られたくなかったっていうのが本音。
そりゃ おかあさんとは今のところ上手くやってるとは思うけど
でも実のお母さんとは違うんだから.......

「香織? まだ辛いのか?」
「違う 何でもないから 」
「具合悪いなら......」
「大丈夫.......ご飯 食べよ 」

炊飯器を開けたら 炊き立ての白いご飯がきちんと炊けてて
ノブさんのお茶碗によそってたら 手元が滲んでお茶碗が二重に見えた。


「.....どうしたんだ。何で泣く?」
「わかんない.....わかんないけど......」

ノブさんが 後ろから私を優しく抱きしめてくれたけど
心の中の訳のわからない想いが 涙に形を変えて流れてく。
自分でも 何が悲しいのか どうして泣いてるのかわからない。
さっきまで 幸せな想いでいっぱいだったはずなのに。

「ごめんなさい。ノブさん 私.....お風呂入ってくるね。」
「ああ 大丈夫か?」
「うん 平気だから。先に食べてて。お腹 空いたでしょ 」

ノブさんの腕から抜け出て バスルームに入って
着ていたものを脱いでから 鏡に映る自分の顔をみつめた。

.........みっともない顔してる。

シャワーの蛇口を捻って 少しぬるめのお湯を出して浴びた。
体を洗いながら お腹にそっと手を当てた。

ごめんね......だめなママだよね。

ノブさんのおかあさん きっと私を気遣って夕飯の用意してくれたんだよね。
それなのに あんなに泣いたらノブさんだってきっと嫌な気持ちだったはず。
お風呂から上がったら ちゃんと謝ろう。どう考えたって 私が悪い。
湯船に浸かってると段々と落ち着いてきて 出ようとしたその時に 扉の向こうで声がした。

「.....香織?」
「え?あ はい 何?」
「ごめんな 俺 香織の気持ちも考えなくってさ。」
「ちょっと待って 今 出るから。」
「そのままでいいから 聞いててくれるか?」

ノブさんの言葉に 半分まで出てた体を もう一度首まで沈めた。

「おふくろさ 香織の顔 見にきただけだって言ってたけど
子供のこと 本当に嬉しかったみたいでさ 妙に張り切っちゃって。
美幸 遠いだろ?こっちに帰らなくって向こうでお産したもんだから。
晩飯の用意もな お嫁さんっていうのは 冷蔵庫とか見られるの嫌がるんだって
おふくろ そう言ったんだけど 俺が頼んだんだ。昨日 魚 辛そうだったから 」

湯船に落ちる雫は きっと悲しさからのものじゃない。

ノブさんの思いやりやおかあさんの気持ちもわからないで 私は......

「ノブさん.....」
「ん?」
「.......ありがとう......ごめんなさい 」

涙声の私に気がついたのか ノブさんは何も言わずに出て行った。
ドアが閉まる音が聞こえてから 声をあげて泣いた。
ノブさんにも おかあさんにも申し訳なくて 
それが優しさだってことぐらいわかってたはずなのに。


ごめんなさい おかあさん......




お風呂から上がると ノブさんはまだ食事に手をつけてなくて
二本目のビールをコップに注いで 飲んでた。

しっかりしろ 私.......


「あれ まだ食べてなかったの?ご飯つめたくなってるじゃん。」
「香織.......」
「うわーっ 美味しそう。肉じゃがってね 私が作るとどうしても薄味なの。
どうやったらこんなに こっくり感がでるんだろ。今度 教えてもらおっと」

指でじゃがいもをつまんで口に運んだ。
おかあさんの作った肉じゃがは 本気で美味しかった。
やっぱり主婦の大先輩にはお手上げだ。

「香織って魚好きだったよな。アジも焼けてるからさ 」
「うん いい感じで焼けてるよねぇ。でもこれは私でもできるかな 」
「確かに。ちなみに俺にだって焼けるよな。」
「そう言うけど これで結構 難しいんだよ。焼き加減がね 」

二人で そんな他愛のない話をしながら 美味しい食事をいただいた。
食べてる途中 ノブさんは 香織にしかできないことがあるって言った。

「糠漬け 食いたいんだけどさ どうだ?気持ち悪くなるなら.....」
「大丈夫 ちょっと待ってて。朝 出掛ける前にきゅうりつけといたから。」

私にしかできないというその一言が 何だかとても嬉しかった。
糠っていうのは 混ぜる人が同じでないといけないって お母さんに言われてた。
混ぜる手が変わると味も変わってしまうって......
毎日 私の手で混ぜてるこの糠は お母さんのとは少し味が違ってきたけど
それでも ノブさんが美味しいって言ってくれるから それが楽しみで......

「やっぱり 飯の最後にはこれだな 」
「あは 日本人って感じだね 」

ぽりぽりと 美味しそうな音を奏でるノブさんを見ながら
改めて さっきのことを謝ろうと思った。

「さっきはごめんね。何なんだろうね......私 」
「もういいから 気にするなって。それよりさ 大事なこと忘れてないか?」

大事なこと? 何か忘れてることって........

「あーっ!実家に電話」
「正解。俺がしてもいいんだろうけど やっぱりこういうことはな。」





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